妻を待っていた。
外でこんな風に待ち合わせをするのは、本当に何年ぶりだろうか。
銀座、瓦斯燈。
求婚時代にふたりでよく足を運んだ、老舗のバーだ。
元々は妻も私も、中央区で生まれ育った。
都市開発の遠心力で、互いの実家は東京の中心から100キロ以上離れた郊外へと移っており、私たちの生活もまた、そこにある。互いの親が逝き、子供たちも独立した今は、いささか手に余る広さの家にふたり暮らしだ。
人生を一日に例えるならば、今の私たちはちょうど日盛りを過ぎたところだろうか。
すこし歩を緩めて、一息つける木陰が欲しくなってきた頃だ。
ある朝、先に支度を整えて朝刊を広げている私に、妻が切り出した。
「ねえねえ、今夜仕事帰りに銀座でデートしない?」声が、華やいでいる。
慌ただしく勤め支度中の妻を見る。
ルージュを引く横顔に、なんとなくドキリとした。
「どうしたの?急に」
「えっ、今日残業なの?」ちょっぴり声が尖る。
「いや、別段なにもないけど」
「だったら瓦斯燈に8時。時間厳守でお願いします」
仕事モードの口調で畳み掛けられた。
「はい、了解しました。では、先に出るよ」
鞄を掴み、玄関に向かう。
ドアの前で腕をつかまれた。振り返る。
「瓦斯燈。8時よ。プレゼントあるから」
きちんと化粧した妻の顔が近づき、唇が触れた。
瞬間、20年前の、あの給湯室での出来事が蘇った。
まだ妻になる前の彼女の行動は、大胆だった。
煮え切らぬ私に、自らの気持ちを宣言した後、唇を重ねてきた。
情熱的な、ただ一瞬のキス。
脳の中で白い爆発が起こり、めまいがした。
そのときから私たちの時計は、同じ時を刻むようになった。
出がけにキスをする習慣を忘れてしまったのは、いつからだったのか。
今日は不意打ちをくらった。
一日中仕事に追われまくり、気がつくと定時を過ぎていた。
「いかんな、間に合わないぞ」思いがよぎる。
ふと、部下の木村課長と目が合った。
「次長、あとは私の方で」と、一言。
こんな関係で、そろそろ5年になる。
年齢は私より一つ上なのだが社歴は浅く、身分的に割を食っている。
できる人なのだが、会社も見る目がないと、いつも思う。
「そうですか。では、よろしく頼みます」
一礼してオフィスを後にする。タクシーをつかまえる。
「銀座、ソニービルね」
ドアが閉まる。タクシーは静かに夜へと滑り出した。
妻は時間通りにやってきた。
「待たせちゃった?」
「ああ、死ぬほど」
「あら、致死量超えるほどお飲みになったのかしら?」
バーテンダーの能坂氏が吹き出した。
彼との付き合いもずいぶんになる。
美味しいカクテルを産み出すテクニックもさることながら、
夜の銀座の楽しみ方をいろいろと教えてくれる。
私にとっては、おとなの遊びの師匠でもある。
「お連れ様、あちらでお待ちですが」
意味ありげな仕草で、店の奥のボックス席を指し示す。
妻は心得たように頷くと、私の肩をポンと叩いて促した。
歩き出す。その先に、さわやかなブルーのスーツが良く似合う若い男の姿が見えた。
席から立ち上がると、深く会釈する。
「こちら日本建物の上杉さん。私たちの新しい住まいを探してくださってるの」
目が丸くなる。たぶん口もそうなっているだろう。
「上杉です。申し訳ありません。なにぶん奥様から旦那様にはご内密に、ということでしたので」
「はあ…松井です」思わず名刺を取り出す。勤め人の野暮な儀式だ。
「ねえ、聞いてないよ。ひどいじゃない。しかも内緒なんてさ」
妻がいたずらっぽく笑う。
「へえ~、聞いてなかったんだ。言ってたはずだけどな、わたし。子供の手が離れたら、故郷で暮らしたいって」
「だって君の実家、けっこう遠いじゃない。この歳であそこから都内に通うのはしんどいよ」
「あのね、ひとの話はよく聞くものよ。私はね、私たち二人の故郷に住むって言ってるの」
少し苛立った様子に面食らっていると、上杉氏が助け舟を出してきた。
「松井様、奥様は中央区およびその周辺のリノベーションおよびコンバージョン物件をご依頼になったんです。今のお住まいよりもお二人の職場に近く、生まれ育った街か、その側がよろしいということで。
条件的に見合ったものが揃った段階で、一度ご報告させていただきましたところ、もっとも条件に合った物件をご主人と一緒に内見したいと申されました。そこで、今夜この近くのマンションをご案内するお約束をいただいておりました」
「ここの近くって、銀座のど真ん中だよ」さすがに声が大きくなる。
私の収入や、あと数年後にはやってくる定年のこと。いくら妻が共働きで、郊外に戸建てを所有しているとはいえ、銀座に住むなんぞ、なんと無謀なことではないか。
「奥様が出された条件は4、000万円台までの2LDK以上で、銀座あるいは新橋に徒歩圏内の物件ということでした。その時点で私がおすすめできる該当物件は10件以上ございました」
「10件ですって」
驚いている私に、上杉氏はリノベーションやコンバージョン物件について、詳しくわかりやすい説明をしてくれた。
カクテルを3杯飲み干した頃には、私たち二人の銀座暮らしは、すっかり現実味を帯びたものになっていた。
妻が言った。
「私たちの街って、ここだと思うの。銀座。ねえ、ここに戻ってきたいと思わない?」
上杉氏とともに3人で瓦斯燈を出て、歩くこと15分。
目指すマンションは、もと食品会社として使われていたオフィスビルだった。
外観からは信じられないほど、内部は完璧にリフォームされている。
「外から見ると、オフィスっぽさは消せないんですが」と、上杉氏は苦笑しながら中を案内し始めた。
妻にはありがたい家事補助設備が充実している。歳をとっても、なかなか快適に住みやすそうな造りだ。しかし、なにより私たちが気に入ったのは、窓から銀座の夜景が楽しめることである。都会の喧噪が、まったく聞こえない。
熱帯魚にでもなったような気分を味わう。
とにかく私たちは、この部屋が気に入った。
3人で瓦斯燈へと戻る。
常連客だけになった店内で、カウンター席に促された。
並んで腰を下ろす。
笑顔の能坂氏が、3杯のジャックローズを振る舞ってくれた。
「お帰りなさいませ。銀座へ」
私たちの帰京は、その夜、粋な乾杯で幕を開けた。
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粋な奥さん。
住居含むプロフィール秘密にしてるんで内緒ですが、
何年か京橋に勤めてたんです。
だから、銀座の空気を吸うとすごく息が楽になります。
うらやましさと憧れを感じました。
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えっ、京橋勤めだったんですか?!
オイラも京橋のINAXのショールームがある通り沿いの出版社に勤めていた時期があります。
銀座はオヤジの勤め先があったので、よく一緒に待ち合わせて飯喰って帰りました。懐かしい。
今は新橋あたりをふらつく、オヤヂです。。。恥の多い人生で、、、号泣