朝を待つ波に身を任せて、過ぎた恋の想い出に耽るサーファーは、いない。
それは歌の世界だけだ。センチメンタル過ぎる。
波の状態が安定している明け方の春の海は、想像以上に騒がしい。
特に、今朝の波のような最高の状態だと、
誰もが真っ先に、その波を掴みたがる。
オイオイッ!オイオイッ!!
若い声。強い声。
パドルのしぶきの間から聞こえてくる追い越しのコールは、
サーファーのクラクションだ。
朝の喧噪は、こんな海の上でも変わらないのか。
苦い笑いが、こぼれる。
まったく人生なんて、間抜けなくらい変わらないものだ、と思う。
あんな、世界が終わるような思いをしたのに。
昨夜、彼は恋人に突如、振られたのだ。
波頭が砕けた。
最初に波を掴んだ奴が、ガッツポーズのまま、緩やかに沈んだ。
そろそろ、出勤時間だ。
「おはよう!山本さん」
田村和也。28歳。営業企画部のサブマネージャー。
入社3年目以内の女子社員には、とても人気がある。
しっかりと日焼けした顔。
山本優香の肩から計って、優に30センチは上だ。
「あ、田村さん。おはようございます」
田村が笑った。
真っ白い歯がこぼれる。ドキリとした。
毎朝、どれだけペーストを使うのだろうか。
「相変わらず早いね。いつも何時に起きるの」
「ウチ、けっこう近いんですよ。8時に出れば、余裕でこの時間なんです」
「山本さんっ家、どこだっけ?」
「門仲です。生まれてからずっと。田村さんは湘南でしたよね」
「茅ヶ崎。けっこう月曜の朝とか、やばいよ」
「今朝もサーフィンしてきたんですか?」
「もちろん!今度、一緒にどう?」
「あ、私、泳げないんですよ。だからムリ」
「即答、だね。なんならビーチで見ててくれるだけでもいいよ」
「それって、浜辺の未亡人ってやつですか?」
「へ、詳しいね。昔の彼氏がサーファーだったとか?」
「惜しいっ!私、角松敏生のファンなんですよ」
「え、それって。。。」
「バブルの頃に人気のあったミュージシャンです。最近、復活したみたいで」
「新井さんあたり、詳しそうだね」
「え、なんでわかったんですか?彼女からCD借りて好きになったんです」
やっぱりそうか。
新井敬子、35歳。管理部総務課に17年勤務している。
昨日の夜まで、6年間連れ添っていた彼の彼女だった。
「この曲って私みたいだよね。去年結婚した姉も大好きだった」
海に向かうクルマの中で、角松敏生の曲を流しながら、彼に笑いかけた。
4年前の夏の終わり。
彼は初めて「Beach’s Widow 浜辺の未亡人」という言葉を知った。
敬子は泳げない訳ではなかった。
「30歳近くにもなって水着になる自信がなくなったのよ」と
いつも彼が海からあがってくるのを波打ち際で待っていた。
大きなタオルを拡げて、手際よく濡れたカラダを拭く敬子を
彼は、母親のように思っていた。
~ ~ ~
「あのう、新井さんって、サーファーの彼氏とかいたんですか?」
今日の昼のお弁当組は、山本優香と新井敬子のふたりだけ。
会議室の机の上では、ささやかなおかずの交換会が始まっていた。
敬子の箸が一瞬、止まった。
「そうね、いたわよ。つい最近までね」
「そっか。なんか朝、田村さんと一緒になったんですけど、新井さんのことが話題になったから」
感づかれたかな…。
どちらかというと、優香は勘の鈍いタイプなのに。
「彼、なんて?」
「あ、別に。角松敏生の曲の話になって。そしたら新井さんあたり詳しそうだねって」
なんだ。よかった。
別れたとたん、急に口が軽くなる男がいる。
一瞬、和也も同じタイプなのかと勘ぐった。
そう思った自分が、悲しかった。
昨夜のことを思い出して、気持ちがざらついた。
別れのキスも、きちんとした話し合いもできなかった。
それが、悔やまれた。
和也とは彼が入社以来の付き合いだった。
若さにまかせた乱暴な告白が新鮮に思えて、3度目の飲み会の後、彼を受け入れた。
思ったよりも繊細で優しい愛し方に、戸惑いと目眩を覚えながら
海の底へと沈んでいくような安心感と疲労感に包まれた。
朝、一緒に会社に向かう道の途中で、和也が切り出した。
「ねえ、敬子さん。俺と一緒に住んでくれませんか」
当時、敬子は吉祥寺のワンルームで一人暮らしをしていた。
築20年以上、古い造りのマンションは、天井も低く、日差しが弱い
あまり魅力的な部屋ではなかった。
それから二人は休日を使って、まるでデートするように部屋探しを楽しんだ。
夏が終わろうとする頃、海まで徒歩圏の低層集合住宅を見つけた。
神奈川県茅ケ崎市。
会社からは遠く、終電も早かったが、二人にとっては天国のような部屋だった。
日差しが部屋の奥まで差し込む、少し広めのリビングに敷かれたマットの上で
二人は何度も魚になった。
夕方になる少し前に、近くの古い商店街に連れ立って、新鮮な魚介類や野菜を買い込むと競い合うように夕ご飯の支度をし、たっぷりとお腹に詰め込む。
代わり映えしない日常の中で、二人の季節はきっかり5回巡った。
「新井君、ちょっと」
管理部長の青木から声が掛かった。
先週、連続して小さくないミスを繰り返した。
基本的な、しかし、致命的な業務上の失敗だった。
「個人的な事情は問わない。だから、黙って辞表を出してほしい」
普段は冗談ばかり言っている上司だが、さすがに声が固い。
小さな会議室。二人だけだ。うなずくほか、なかった。
少しだけ、涙が出た。
「顔を直してから、席に戻ってくれ。…すまない」
青木は先に部屋を出た。
その夜、家に帰ってから和也に会社を辞めなければならなくなったことを話した。
彼は激怒した。
「ちょっと、あんまりだよ。なんで、敬子が辞めなきゃなんないんだ。上司ならば奴が辞めればいい。
上司は部下の仕事に責任を持つべきだろ」
「いいのよ。悪いのは仕事ができない私なんだから。長いこと同じことばかりやってきたから、状況が変わったことに気がつかなかったのね。自分で業務を工夫することも、できなかったし」
「だからって何の指示もなかったんだろ?動きようがないじゃないか」
「!? 和也は誰かに指示されなかったら、仕事できない人だったっけ?」
思わず声が尖った。
「なんだよ!俺は敬子のためを思って言ってるのに」
「同情なんて。。。私を見下してるってことじゃない。そんな慰めなんて、優しくないよ」
これ以上、何かを口にしたら、物騒なことになりそうな険悪さが、空気に混ざり始めていた。
「私、ちょっと出てくるわ」
タバコをつかんで、部屋のドアを開けた。
とたんに腕をつかまれ、振り向かされた。
「いやっ。やめてよ!」
「待てよっ。俺の気持ちも知らねえで!!勝手なことばかり言いやがって。青木のことまでかばうなんて。あいつと寝たのか?!」
地雷が、踏まれた。
男として、言ってはいけない言葉だった。
敬子は、心が急激に冷え込んでいくのを感じた。
「も、終わりにしよ…」
この6年、けっして一度も口にしたことのない言葉だった。
少なくとも、敬子から切り出したことは一度も、なかった。
その瞬間、和也は彼の大切な存在を、失った。
4週間後、敬子が辞める日、和也は出社したばかりの青木を殴り倒した。
したたかに床に叩き付けられたその横顔を、さらに蹴り上げる。
派手に朱が飛んだ。
元族あがりと噂の開発課長が、切れて暴れ続ける和也に飛びかかていった。
ようやく駆けつけた警備員たちに取り押えられた後、和也は懲戒免職処分となった。
私物ごと文字通り、会社から放り出された。
半年が過ぎようとしていた。
毎日毎日、海にも入ることなく、ダラダラと過ごす日々が続いていた。
敬子と青木が結婚したという噂が流れてきた。
不思議と心は波立たなかった。
敬子との月日は、あっという間に現実味を失っていった。
ある明け方、突然、山本優香が訪ねてきた。
「田村さん、海行きませんか?」
「なんだよ、突然」
「私の目の前で、波に乗ってください」
思い詰めたような瞳が、少し腫れぼったい。
徹夜で考えて、やってきたのだろう。
「田村さん、ずっと私のヒーローだった。。。」
最悪のタイミングの告白だったが、ガツンと、きた。
青春の眩しさに包まれた優香の姿があった。
まっすぐに、がむしゃらに。
腐りきったヒーローの和也を、ひっぱりあげようとしている。
胸が熱くなっていた。
ボードとウエットをつかむと、裏に止めたワーゲンに走る。
優香が追ってきた。
助手席側のドアを開け放った。
「乗れ!早く!!波に、間に合わねえ!」
「うんっ!」
膝丈のスカートが捲れて、足の付け根が見えた。
パームツーリー柄のビキニ。
波乗りを始めた頃に見た、映画「ビッグウエィブ」に出てくるカリフォルニアガールを思い出す。
白い、柔らかそうな肌が、少しだけ生々しい。
10分後、オンボロのシャシーが吹っ飛びそうな勢いで砂浜に突っ込む。
素早く服をぬぐ。ニットのショーツ一枚になって、ウエットをつける。
パワーコードをつけると、和也は叫びながら狂ったようにパドルを始めた。
食い入るように、優香が見つめている。
しばらくすると雨が降り始めた。
波が高い。
波頭が砕ける。勢いが、すごい。
思わず鳥肌が立つ。
何度も岩床に叩き付けられそうになる。
それでも和也はテイクオフを繰り返す。
優香が叫ぶ。
「あきらめないでよ!田村さんは、私のヒーローなんだから。ヒーローなんだからね!」
秋がはじまったばかりの海で、しばらく死んでいた男が
ふたたび最高の波を捉まえようと、もがいていた。
真剣で、まっすぐな瞳が、その姿をしっかりと追い続ける。
遥か水平線のあたり、淡く蒼いグラデーションは熱を帯びたように赤く変わり始めた。
新しい一日が、はじまろうとしていた。
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わ…これ凄いですね。
傑作ですね
年上の彼女の複雑すぎる心、
若い彼女のまっすぐに切り込んでくる心。
純粋な恋だったのに、いけないのは時間なのか齟齬なのか、それともふたりの年齢のちがいなのか、掛け違っていくことで崩れて腐っていくことってありますよね。
ヒーローだ、という言葉の眩しさが、主人公を再生させて、それがサーフィンで表現されているのにぐっときました。
パパンさま。
こんなに素敵な小説を書かれるなんて…。
惚れてしまいそうですよ。
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惚れてしまいそうだなんて、そんなぁ。。。
もっと言ってくださいっ(爆
でも、最近は小説書けてないんですよ。
りり様やK師、あと「さくらんぼ」の柚子季さんとか、皆さんホント素晴らしい。才能あるなぁ、とか思うんですよね。
あと今は毎日が満たされるからかも知れません。
美人妻と娘と犬娘のおかげで。
焼きたてのパンの薫りで目覚めるような、そんな朝がくるなんて、数年前のオイラからしたら、想像もできませんやね。